「SaaSの死」後に狙う出遅れソフトウェア有望株
「SaaSの死」が生んだ半年間の株価低迷とその背景
2026年の日本株市場は、年初から異例の展開に見舞われた。1月末にAnthropicが自律型AIエージェント「Claude Cowork」を発表したことを契機に、世界のソフトウェア関連株が一斉に急落する、いわゆる「アンソロピック・ショック」が発生しました。AIエージェントが既存のSaaS製品を代替するという懸念が一気に市場に広がり、米国では主要SaaS企業4社の時価総額が合計で約15兆円消失したとされています。
この「SaaSの死」と呼ばれる現象は、従来のソフトウェアビジネスの根幹であるID課金(パーシート課金)モデルへの構造的な疑問を突きつけました。AIエージェントが1人の業務を代行できるようになれば、企業が購入するライセンス数自体が減少するという「シート縮小リスク」が意識されたのです。実際にSalesforceは従量課金モデルへの移行を進め、シートベースの課金採用率は21%から15%に低下し、ハイブリッド課金は27%から41%へ急伸するなど、業界の料金体系そのものが転換期に入っています。
しかし約半年が経過した現在、市場の目線は明確に変わり始めています。AI・半導体関連銘柄への一極集中相場が転機を迎え、資金がバリュー・内需セクターへと流れ始めたことで、「SaaSの死」で過剰に売られた優良ソフトウェア銘柄に再評価の機運が高まっているのです。本記事では、このリターンリバーサルの動きを多角的に分析し、投資家が注目すべき着眼点を整理します。
アンソロピック・ショックの実態と「売られすぎ」の構造
AIエージェントが引き起こした市場パニックの全容
2026年2月の市場パニックは、冷静に振り返ると過剰反応の側面が色濃いものでした。Anthropicが発表した「Claude Cowork」は、ユーザーのパソコン上でファイルやアプリケーションを自律的に操作するAIエージェントです。これを受けて「既存のSaaSサービスが不要になる」という極端な見方が広がり、2月第1週だけで世界のソフトウェア関連株から約45兆円の時価総額が消失したと報じられています。
日本市場への波及も甚大でした。NEC、富士通、NRI(野村総合研究所)といった大手IT企業の株価が軒並み急落し、NECは直近高値の6,000円近辺から4,000円前後へ約30%下落する場面がありました。サイボウズも2025年8月に記録した上場来高値4,160円のほぼ半値まで売り込まれています。SaaSの純粋銘柄だけでなく、システムインテグレーターや大手ITベンダーまで巻き添えとなる形で、「連想売り」が市場全体に拡散しました。
業績と株価の乖離が示す投資機会
重要なのは、こうした急落がファンダメンタルズの悪化を伴っていなかった点です。NECの2026年3月期第3四半期決算は営業利益が前年同期比46.8%増、純利益は同98.8%増とほぼ倍増を達成。富士通も営業利益が99.4%増、純利益が290.3%増と驚異的な成長を見せていました。にもかかわらず株価は急落したのですから、典型的な「ミスプライシング」、すなわち業績と株価の乖離が発生していたといえます。
楽天証券のアナリストレポートでは、当時のNECについてアナリストコンセンサスの目標株価が6,851円であるのに対し株価は4,099円で、67%ものアップサイドが示唆されていたと指摘されています。PEG(株価収益率÷利益成長率)レシオで見てもNECは約0.46倍と、成長率に対して著しく割安な水準にあったのです。政府機関や通信・防衛向けのITインフラを担うNECの事業は、AIによる代替が容易ではないにもかかわらず、「SaaS」という大きなテーマに巻き込まれる形で売られたことが、ミスプライシングの根本原因でした。
AI半導体一極集中の終焉と資金循環の変化
日経平均7万円突破後に見えた相場の質的変化
2026年6月、日経平均株価は72,366円の史上最高値を記録しました。この上昇を牽引したのは東京エレクトロンやアドバンテスト、信越化学工業といったAI半導体関連銘柄であり、野村證券は2026年末の日経平均を68,000円、TOPIXを4,200と予想する強気なシナリオを提示しています。AI半導体関連企業(ソフトバンクグループを除く)の営業利益は2026年度に倍増が見込まれるなど、業績の裏付けも確かなものがありました。
しかし7月に入ると、市場のテーマに微妙な変化が生じています。AI半導体銘柄への「高所恐怖症」が意識され始め、循環物色の動きが顕著になりました。楽天証券のストラテジストは2026年後半の日本株戦略として「AI半導体の押し目買いと割安株妙味」を提唱し、「循環物色」の重要性を強調しています。TOPIX(東証株価指数)がある週に2.6%上昇した際も、その牽引役はAI半導体ではなく「出遅れ・割安銘柄の見直し買い」だったと分析されています。
金利上昇環境が促すバリュー回帰
この資金循環を後押ししているのが、日本の金利環境の変化です。日銀は2026年6月の金融政策決定会合で政策金利を0.75%から1.0%へ引き上げ、31年ぶりの高水準に達しました。3年連続で歴史的高水準となった春闘賃上げの確認、資源価格上昇と円安によるインフレの上振れ懸念、中東情勢の安定化に伴う下振れリスクの後退が利上げの主な根拠とされています。野村證券は2026年に2回、2027年に1回の追加利上げをメインシナリオとして掲げています。
「金利のある世界」への移行は、成長株(グロース)からバリュー株への資金シフトを促す典型的な環境です。割引率の上昇は将来利益の現在価値を圧縮するため、PERの高いグロース株にとっては逆風となります。一方、すでにPERが切り下がったSaaS関連株にとっては、むしろ「これ以上の下値は限定的」という安心感を与えうる局面でもあります。好業績にもかかわらず売り込まれたソフトウェア株は、金利上昇によるバリュエーション調整を先取りした形であり、ここからのリターンリバーサルが現実味を帯びています。
リターンリバーサル候補として注目すべき銘柄群の特徴
国内SaaS:ラクス・Sansan・マネーフォワードの業績動向
リターンリバーサル戦略とは、過去の一定期間にアンダーパフォームした銘柄を買い、アウトパフォームした銘柄を売る投資手法です。2024年のパフォーマンス下位銘柄が2025年に反転するケースが確認されており、この傾向は2026年のSaaS銘柄にも当てはまる可能性があります。
国内SaaS銘柄のなかで注目されるのが、好業績を維持しながらも株価の戻りが鈍い銘柄群です。ラクス(3923)は2026年3月期の連結経常利益が前期比70.7%増の174億円に拡大し、2027年3月期も17.5%増の205億円と4期連続の過去最高益更新を見込んでいます。売上高成長率は23%超、営業利益率は28%台と収益性も高水準です。
Sansan(4443)は2026年5月期の売上高が前年同期比24.4%増の537億円、調整後営業利益が137.0%増の84億円と大幅な増収増益を達成しました。名刺管理「Sansan」に加えて請求書管理「Bill One」の成長が利益拡大を牽引しています。こうした実績は「SaaSの死」とは程遠い好調ぶりであり、株価との乖離が一段と際立ちます。
大手IT・SIer:NEC・富士通の「巻き添え売り」からの回復余地
大手ITベンダーやシステムインテグレーターは、SaaS企業とは事業構造が根本的に異なります。日経クロステックの報道では、NRI(野村総合研究所)は「SaaSの死」に巻き添えとなったものの、同社の強みであるCOBOL解読をAIで加速する取り組みなど、むしろAI活用の恩恵を受ける立場にあると指摘されています。
マネーポストWEBでは著名投資家がNECなど「SaaSの死で暴落した3銘柄」の株価水準を検証し、事業構造と業績からみて投資チャンスとなりうるとの分析を示しています。政府向けIT、防衛、通信インフラといったNECの主力事業はAIエージェントによる代替リスクが低く、むしろDX需要の拡大で受注が増加する構造にあります。「SaaS」というラベルだけで一律に売られた銘柄の中に、本来のファンダメンタルズとはかけ離れた割安銘柄が潜んでいるのです。
課金モデル変革に適応する企業を見極める視点
投資判断においてもう一つ重要なのが、各企業がAI時代の課金モデル変革にどう適応しているかという視点です。従来のパーシート(ID課金)モデルからハイブリッド課金や従量課金への移行は、短期的には売上の不安定化要因となりますが、中長期ではAIエージェントの利用拡大に伴う新たな収益機会を取り込める可能性があります。
サイボウズの青野慶久社長は日経新聞のインタビューで、「SaaSの死」の波及懸念を認めつつも「AIは脅威にあらず」と述べ、好機と捉える姿勢を示しています。勤怠管理SaaS「KING OF TIME」を展開するヒューマンテクノロジーズ(5621)は、売上高年率20%成長と営業利益率30%の中期目標を掲げており、SaaS企業としての成長戦略を明確にしています。AI時代にも必要とされる業務領域で高い市場シェアを持つ企業は、「SaaSの死」の文脈では見落とされがちな投資候補となりえます。
課題と展望――リターンリバーサルが不発に終わるリスクシナリオ
リターンリバーサル戦略には当然リスクも伴います。まず、AIエージェントの進化が想定以上に速く、SaaS企業の事業基盤を本格的に侵食するシナリオは否定できません。Salesforceですら2026年に入って株価は33%下落した水準から本格回復できていないとの指摘もあり、課金モデルの転換が収益化に結びつくまでには時間を要する可能性があります。
次に、日銀の利上げペースが加速した場合、グロース株全般に対する下押し圧力が一段と強まるリスクがあります。野村證券のメインシナリオでは2026年内にもう1回の利上げが想定されており、SaaS銘柄の多くはPERが相対的に高い水準にあるため、金利上昇局面では引き続きバリュエーション面で逆風を受けやすい構造です。
さらに、日経平均が7万円台の高値圏にあること自体が、個別銘柄の選別をより厳しくしています。2025年末までの3年間で日経平均は96%上昇しており、指数全体のさらなる上昇余地は限定的との見方が市場にはあります。リターンリバーサルが効きやすい環境ではあるものの、個別銘柄の業績精査なしに「出遅れだから買い」という安易な判断は避けるべきです。値下がり銘柄の逆張りにおいては、業績の裏付けがあるかどうかの確認と、AI時代への適応力の見極めが不可欠といえるでしょう。
投資家が7月決算シーズンで注視すべき3つの判断基準
「SaaSの死」から約半年、市場は恐怖から選別の段階へと移行しています。AI半導体一極集中の終焉と資金循環の変化は、過剰に売られたソフトウェア銘柄にリターンリバーサルの追い風を送っています。しかし、すべての「出遅れ銘柄」が反転するわけではありません。
7月の決算シーズンに際して、投資家が注目すべき判断基準は3つです。第一に、直近四半期の売上高成長率が20%以上を維持しているかどうか。「SaaSの死」が業績面でも現実化しているのか、それとも株価だけが先走って下落しているのかを見極める最も直接的な指標です。第二に、AI活用の取り組みが具体化しているか。AIを脅威と捉えるだけでなく、自社製品へのAI統合やAIエージェント時代に対応した課金モデルの模索を進めている企業は、市場の再評価を受けやすい傾向にあります。第三に、事業のAI代替リスクが低いかどうか。政府向けIT、医療・介護、建設・製造などの領域で高い参入障壁を持つソフトウェア企業は、「SaaSの死」の逆風を受けにくい構造を持っています。
リターンリバーサルの本質は、市場の過剰反応が生んだミスプライシングの修正です。恐怖が支配した半年間を経て、好実態の銘柄が正当な評価を取り戻す局面が近づいています。決算の数字を冷静に読み解き、AI時代の事業競争力を見極める目が、いまこそ問われています。
参考資料:
- 「SaaSの死」は本当か? AI本格普及後も収益拡大が期待できるソフトウェア企業の条件(野村證券)
- NEC、富士通、NRI…「SaaSの死」で売られる優良銘柄、実は買い時?(トウシル)
- 「SaaSの死」銘柄の逆襲、出遅れ株に資金 日経平均最高値後押し(日本経済新聞)
- ソフトウェア株20%急落の真相──AI時代を生き残るSaaS企業の条件(Forbes JAPAN)
- 「SaaSの死」日本版におけるミスプライシングとは?(マネックス証券)
- サイボウズ青野社長「SaaSの死」波及懸念も好機、「AIは脅威にあらず」(日本経済新聞)
- 2026年後半の日本株戦略:AI半導体の押し目買いと割安株妙味(トウシル)
- 日銀の追加利上げ予想 2026年2回・2027年1回を新たなメインシナリオに(野村證券)
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